空想の魚を1000匹描いた本です。社長の生イラスト(空想の魚一匹)のサイン入り。
明和電機の魚器(NAKI)シリーズの出発点となった作品です。
<社長が空想の魚のイラストを入れます>
ご希望の方は、購入画面のメモ欄に社長の空想の魚のイラスト入れ希望とご記入ください。
※社長のサイン入れに約1週間ほどお時間をいただいております。ご了承ください。
<あとがきより>
僕には子供の時から繰り返し見る魚の悪夢がある。奇形の魚が池にびっしりいて、ヒラメのように並んだ目でこっちを見ていたり、断崖を落ちそうになりながら歩いていると、下に巨大な魚がポッカリ口を開けていたり、背中にびっしり毛が生えていたり、 手が切れそうな鋼の鎧を着ていたり・・・。おそらく心の底にある「得体の知れない何か」が、魚の形で意識の中に泳ぎ出していたのだと思う。
22歳の時、僕はスランプになった。幼稚園の頃から、将来は芸術家になることを決めていた僕は、何の疑問もなく美術大学に進み、作りたいものを作り続けた。しかし22歳の4月、その疑問は突然現れた。「自分が作りたいものは何なのか?」「そもそも作るとはどういうことなのか?」それは創造行為そのものに対する根本的な疑問だった。そのため、僕は全く作品が作れなくなった。
手も足も出なくなった時、魚の悪夢を思い出した。創造行為の出発点には「見えてしまった」イメージがある。ではそのイメージとは何なのか?僕の場合、魚の悪夢という形で時折浮上するものがそれだった。ならばその魚を徹底的に現実世界へ釣り上げてみよう。手当たり次第に捕獲し、それを分析すれば、 自分の中の創造行為に対する根本的な「核」が見つかるかもしれない。
魚を描くために、釣った場所と時間が記入できる専用フォーマットをA4の紙に印刷し、 細めのサインペンを持って、僕は深夜のファミリーレストランに向かった。釣り上げる魚の数は1000匹に決めた。薄いコーヒーを飲みながら目をつむり、浮かんだ魚を下描きなしで片っ端から描き始めた。こうして「オタクギョタク」の作業が始まった。
描く時2つのルールを決めた。
① 「これは魚じゃないから・・・」 などという思いは捨てて、とにかく見えた魚をひたすら描くこと。
② 同じ魚は描かないこと。
最初の3日で50匹ぐらいがスイスイ描けた。このペースなら、1000匹ぐらい2ヶ月で描けると思った。 しかし描くにつれて、どんどんイメージが減っていき、 「同じ魚は描かない」というルールのため、筆が進まなくなっていった。318~327あたりは、かなり行き詰まっている。不思議な事に行き詰まりを乗り越えると、後は楽に描けた。
1991年6月26日にスタートしたこの釣りは、1991年11月15日に1000匹目を無事釣り上げることで終了した。分厚いA4の紙の束の重さが、手で実感できる「確信」のようで嬉しかった。
続いて僕は分析作業に入った。1000匹の魚をカードにし、 似たもの同志を集めた。紋様、形状、ユニークさなど、様々なポイントに注目し、カテゴリー分けをしていった。これがうまくいけば、自分の中にいる 「得体の知れない魚」 の進化の系統分類図が作れるはずだった。しかし、この作業は失敗した。生物は時間軸にしたがって進化しているので、樹の形のような、線的な系統樹ができる。しかし頭の中のイメージはもっと交錯しており、線的な分類は不可能だった。床に広げた1000枚のカードを眺めて途方に暮れたが、脳の仕組みの面白さを実感する事ができた。
オタクギョタクを描き上げて、僕は2つの事を得た。一つは、「自分に制約をつけずに何でもどんどん作ろう」という勇気。描いちゃいけない、作っちゃいけないという思い込みこそが、創造行為の最大の敵であると思った。当たりハズレがあってもいいじゃない、とにかく作ろうよと。もう一つは、「自分はモノを作り続けることができる」 という自信。1000匹目を描き終えた時、1001匹目を描く自信があった。2000匹も描けるだろう、10000匹も大丈夫だ。つまり、自分が生きている限りモノを作り続けることができるんだ、という確信を持つ事ができた。
オタクギョタクで得た“勇気”と“自信”は、その後、魚器(なき)シリーズを生み出し、 明和電機という型破りな芸術表現を出発させる原動力となった。
オタクギョタクは芸術家・土佐信道が作った、最初の作品だったといえる。
2005年 7月12日 土佐信道(明和電機)